4.校名の由来

 あらためて言うまでもなく、本校の校名は「慶應義塾志木高等学校」です。この校名が所在地の名である「志木市」に由来することは自明のようですが、実はそうではありません。「志木市」の誕生は昭和45年〔1970〕。本校が「慶應義塾志木高等学校」を名乗る昭和32年〔1957〕に、この地はまだ「足立町」と呼ばれていたからです。ここでは「志木高」の名と、「志木」という地名の歴史について、少し詳しくご紹介したいと思います。

「志木」の由来

 現在の埼玉県志木市・新座市・和光市・朝霞市、それから東京都西東京市や練馬区の一部は、江戸時代まで武蔵国新座郡に属していました。この新座郡の歴史は奈良時代にまで遡ります。天平宝字2年〔758〕、時の朝廷は、新羅から渡来した僧侶や俗人たち74人を武蔵国の閑地(空き地)に移住させ、はじめて「新羅郡」を設置します(『続日本紀』天平宝字2年8月24日条)。この時代、朝鮮半島から多くの人が渡ってきており、7世紀後半以降、朝廷は彼らをまとまった人数でたびたび武蔵国に居住させていました。その背景には、百済・高句麗の滅亡、唐と新羅の対立、渤海国の建国など、不安定な当時の東アジア情勢があったと考えられています。

  さて、新羅郡は、宝亀11年〔780〕の史料にはその名が見えますが(『続日本紀』宝亀11年5月11日条)、延長5年〔927〕に完成した平安時代の法典『延喜式』には、新羅郡に替わって「新座」郡の名が現れます(巻22・民部上)。新羅郡は、10世紀の初めまでに「新座郡」にその名を変えたようなのです。

 新座郡内にあった郷(郡より小さい行政単位)については、平安時代、源順(みなもとのしたごう:911~983)によって編纂された辞書『和名類聚抄』に記載があります。『和名類聚抄』によると、新座郡は、「爾比久良(にひくら)」郡と読み、志木郷と余戸(餘戸)によって構成されていました。当時、一つの郷は原則50戸で構成され、10戸以上超えるとこれを分けました。分けられた小集落が「余戸」で、これは固有の地名ではありません。つまり、「志木」は、最も古い時代から知られる、新座郡で唯一の地名なのです。では、「志木」というのは、平安時代以来使われ続けてきた古い地名なのでしょうか。実はこれも違います。

町名の変遷

 明治7年〔1874〕、今の志木市域(柏町・幸町・館・本町)にあった館村と引又町が合併する際、新たな町名をどちらにするかで大変もめました。引又町はもともと館村から分かれたのですが、当時商業で大いに栄えていました。そのため引又町側は、西日本にも聞こえた「引又」の名がなくなると商取引にも支障をきたすと主張。一方の館村側も、引又は館村から分かれたのだから、館村の名を残すべきと譲りません。裁定を預けられた県(当時は熊谷県)は、どちらでもない地名を付けることにし、『和名類聚抄』にあった「志木」の名を借りてきたのです。こうして、合併後の名称は「志木宿」となり、古代の地名が復活することになりました。

 志木宿は、町村制が施行された明治22年〔1889〕に「志木町」に改称。戦時下の昭和19年〔1944〕、志木町は一時、宗岡村・水谷村・内間木村と合併して「志紀町」となりますが、戦後の昭和23年に解体、もとの一町三村に戻ります(「志紀」の名は、合併した日が2月11日=紀元節だったことにちなむものでした)。松永安左ヱ門から東邦産業研究所の敷地・施設が寄贈されたのはこの間、昭和22年のことです(沿革参照)。

 昭和30年〔1955〕、志木町は再び宗岡村と合併しますが、新町名の選定は難航します。志木町側は「志木町」を希望したものの、宗岡村側は対等な合併であるからと、新しい町名を望んだからです。結果、隣町が旧郡名を取って「新座町」(現・新座市)としたことに対抗し、やはり古代から続く足立郡の名を取って「足立町」となったのです(明治29年〔1896〕、新座郡は北足立郡に統合されたため、当時、志木町と宗岡村は北足立郡に属していました。もちろん古代の足立郡は町域とは重なりません)。

「志木高」誕生

 このような経緯で、昭和32年〔1957〕、本校が農業高校から普通科の高校へと変わった時、その所在地は「埼玉県北足立郡足立町大字志木」でした。しかし、誕生してわずか2年足らずの「足立町」に比べ、「志木」という地名ははるかに馴染み深いものになっていたのです。東武東上本線の駅名が、大正3年〔1914〕の開通以来(開通時は東上鉄道)、変わらず「志木駅」だったことも、この地名の定着に寄与したのかも知れません。

  そもそも、農業高等学校開校前、その「高等学校設置案」には「名称 慶應義塾志紀高等学校(仮)」との記載があります(『研究紀要』第3輯)。この名称は採用されなかったものの、「志木高」の名の淵源をここに見ることも可能でしょう。また、町の名が「志紀」から「志木」へと戻った昭和23年〔1948〕、農業高等学校の開設と前後して、同じ敷地内に大学工学部の分室が設置されます。旧東邦産業研究所の設備を利用して、応用化学科の研究・授業が行われたのです。この工学部分室は、当時から「志木分室」と呼ばれていました(『工学部十年史』)。慶應義塾は、この時すでにこの敷地を「志木」と呼んでいたのです。

 こうした前史を経て、普通科となった本校の校名は、「慶應義塾足立高等学校」ではなく、「慶應義塾志木高等学校」となりました。校名に地名を入れたことについて、当時校長だった吉田啓一氏は、『30周年記念誌』に寄せた文章の中で、次のようなエピソードを語っています。

 最後に極めてささやかな自慢話を聞いて下さい。それは新しい高校を志木高と名付けたことです。塾の評議員会などで第2高校と名付けたらどうかという説がありましたが、何か第1、第2などと順位をつけられるような気がしたので、志木高と命名することを頑張って、実現したことです。

 「足立町」は、昭和45年〔1970〕に市制が施行される際、準備委員会の全会一致を以て「志木市」と改称されました。明治から約100年を経て、「志木」は歴史ある地名として、すっかりこの地に根付いていたのです。市の名に先んじて、本校の名がそれを示していると言えるでしょう。

「志木」「志未」「志末」

 ただし、「志木」が本当に「歴史のある地名」と言えるのか、というと、少しややこしい問題が残されています。問題の一つは、かつての「志木郷」が、今の志木市一帯にあったのかは分からない、ということです。

 江戸幕府が編纂した地誌『新編武蔵風土記稿』(天保元年〔1830〕)は、志木郷が当時の「上白子村」(現・和光市白子周辺)にあったとする説を載せています(巻134・新座郡之六)。この説によれば、かつて上白子村の辺りは、「新羅人」が住んでいたことから「志楽木(シラキ)郷」と呼ばれており、「志木」は「志楽木」を略したもので、「白子(しらこ)」は「シラキ」がなまったものだというのです。『新編武蔵風土記稿』は、この説について、後人の付会で信じ難い、と記す一方、地理的条件から、郡内で最初に開けたのは、やはり白子周辺の地だろうと推測しています(巻129・新座郡之一)。

 平成2年〔1990〕に完成した『志木市史』でも、新羅郡で最初に開墾されたのは、今日まで「にいくら」の地名を残す和光市新倉や、新羅から転化したと思われる和光市白子の地域ではないかと推定しており、「志木郷」探しが、江戸時代からあまり進展していないことが分かります。考古学的な調査は続いていますが、かつての志木郷が何処にあったのかは、現在でもよく分かっていないのです。ただ少なくとも、現在の志木市と古代の志木郷に直接の関係はなく、それが重なっている可能性はそれほど高くないと言えます。

  もう一つ、そもそも古代において、本当に「志木(しき)」という地名があったのかも問題です。実は『和名類聚抄』は、原本が失われ、残されている写本によって記述が異なるのです。近世に最も流布した版本(元和古活字本)や、大東急文庫の所蔵する室町時代中期の写本には、確かに「志木」とあるのですが、名古屋市博物館の所蔵する永禄9年〔1566〕の写本には「志末」、天理大学図書館の所蔵する平安時代末期の写本(高山寺本)には「志未」とあります。

 これらの記述について、邨岡良弼の『日本地理志料』(1902~1903刊)は、「未」は「楽」の草書体であり、本来の郷名は「志楽」で、「しらぎ」と読んで新羅を意味すると指摘しています。吉田東伍の『大日本地名辞書』(1900~1907刊)も同様で、「志木」「志末」は「楽」字の草書体と「木」「末」の字が近いために、書き誤ったものと推測します。

 『和名類聚抄』の原本に何と書かれていたかは分かっていません。しかし、もし邨岡や吉田の指摘が正しいとすれば、古代に存在したのは「志木(しき)」ではなく、「志楽(しらぎ)」という地名だったことになります。「志木(しき)」は、古代の地名が復活したものではなく、長い歴史の中で古い書物が写し間違えられ、近代になって新たに付けられたものかも知れないのです。

「志木」から知る歴史

 明治という時代は、天皇を中心とする国づくりを目指す中で、古代が顧みられた時代でした。明治2年〔1869〕の行政機構改革で設置された「大蔵省」や「宮内省」という役所名も、8世紀以来の名称が採用されたものです。「志木」の名の復活にも、そうした気運が関係しているのかも知れません。

 「志木」は平安時代の書物から採られた地名ではありますが、この地で生き続けてきた「古い地名」ではありません。しかしだからこそ、近代の人々が古代を、歴史をどのように見ていたのかを考える手がかりとなる、なかなか興味深い地名だと言えるでしょう。そのような意味で、「志木」は間違いなく「歴史ある」地名なのです。

【参考文献】

  • 志木市教育委員会編『志木市郷土誌』(志木市、1978年)。
  • 志木市編『志木市史』原始・古代資料編(志木市、1984年)。
  • 志木市編『志木市史』通史編上 原始・古代・中世・近世(志木市、1990年)。
  • 志木市編『志木市史』通史編下 近代・現代(志木市、1989年)。
  • 埼玉県編『新編埼玉県史』通史編1 原始・古代(埼玉県、1987年)。
  • 新座市教育委員会市史編さん室編『新座市史』第五巻 通史編(埼玉県新座市、1987年)。
  • 朝霞市教育委員会社会教育部市史編さん室編『あさかの歴史』(朝霞市、1997年)。
  • 高山弘「志木高創設期を顧みて(その一)」(『慶應義塾志木高等学校研究紀要』第3輯、1973年)。
  • 『30周年記念誌』(慶應義塾志木高等学校、1978年)。
  • 「志木高五十年」編集委員会編『志木高五十年』(慶應義塾志木高等学校、1998年)。
  • 慶應義塾大学藤原記念工学部編『慶應義塾大学藤原記念工学部十年史』(慶應義塾大学藤原記念工学部、1949年)。
  • 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀』三(『新日本古典文学大系』14、岩波書店、1992年)。
  • 同『続日本紀』五(『新日本古典文学大系』16、岩波書店、1998年)。
  • 虎尾俊哉編『訳注日本史料 延喜式』中(集英社、2007年)。
  • 京都大学文学部国語学国文学研究室編『諸本集成 倭名類聚抄』本文編(臨川書店、1968年)。
  • 源順撰『和名類聚抄』第3冊 (那波道円、1617年)(国立国会図書館『国立国会図書館デジタル化資料』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544218?tocOpened=1)。
  • 古辞書叢刊刊行会編『原装影印版 古辞書叢刊 和名類聚抄(二十巻本) 大東急記念文庫蔵』(古辞書叢刊刊行会、1973年)。
  • 名古屋市博物館編『和名類聚抄』(『名古屋市博物館資料叢書』2、名古屋市博物館、1992年)。
  • 林述斎編『新編武蔵風土記稿』五(歴史図書社、1969年)。
  • 邨岡良弼著・濱田敦開題『日本地理志料』(臨川書店、1966年)。
  • 吉田東伍『増補 大日本地名辞書』第六巻 坂東(冨山房、1970年)。
  • 池邊彌『和名類聚抄郷名考證 増訂版』(吉川弘文館、1970年)。

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