7.焼き鏝

yakigote01a.jpgぺンマークの中央に「農」の一文字。この風変わりな徽章は、志木高の独特な歴史を物語る一つの遺産である。

志木高は昭和23年、「慶應義塾農業高等学校」としてスタートした。福澤諭吉の実学の精神に基づき、有畜農業の実践を目指して開設されるも卒業後に農業関係の実務に就く者は少なく、入学者の多くは慶應義塾大学への進学を希望した。このような時代背景を受け、昭和32年に普通科高等学校として再スタートを切ることになったのである。この間わずか9年。慶應義塾の中に農業高校が存在し、近代農業推進のための人材育成が図られた時代である。

 

yakigote03a.jpg写真の焼印は、農高時代の鋤(すき)や鎌の柄に残されたものである。焼き鏝(やきごて)自体も残っており、ふつうに使用できる状態であった。長さ26センチの鉄製の柄の先に銅製の鏝(こて)がつけられており、2センチ角の中にくだんのペンマークが鏡像で刻印されている。エッチング(彫刻と腐蝕)で作られている刻印はそれほど痛んではおらず、「使い込まれている」という感はない。実際に板材に焼き付けると丸みのあるペンマークにシャープな「農」の字が浮かび上がった。

 

 

yakigote02a.jpg焼き鏝(やきごて)というと家畜に直接押しつけるものを想像しがちだが、この焼き鏝(やきごて)自体は動物用としてはとても小さく、昭和23年から勤務されていたOB教員に伺っても「動物に使用したことはない」と断言されていた。おそらく、校章としてデザインされたもの(前身の獣医畜産専門学校時代も含めて)が志木高所有の農具の柄に焼き印されたのであろう。「おそらく」というのは、前出の教員や昭和24年から勤務されていた職員の方に伺っても、またOB会を通じて情報を集めてもその来歴にはたどり着けなかったのである。

 

しかし、それぞれの一貫教育校が独自の校章を持たないのがふつうである現在からみると、このような独自の校章が存在した、という事実が興味深い。「誰が、どのような経緯で」この校章をデザインしたのか?この記事がその来歴に心当たりのある方との縁を取り持ってくれることを期待して筆を置きたい。

本稿は、『三田評論』2010年10月号掲載のコラムKEIO MONO MUSEUMからの転載である。

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