8.収穫祭の歌

「収穫祭の歌」とは

1965(昭和40)年、志木高在学中の吉田進さんによって作詞・作曲された我が校の文化祭の歌です。同年第18回収穫祭において披露され、以後多くの生徒たちに歌われてきました。現在も生徒手帳に楽譜と歌詞が載っています。2012年に改めて吉田進さんにピアノ伴奏譜を書いていただき、また失われてしまっていたブラス・バンド譜を音楽科の小池教諭が編曲し、同年の収穫祭においてワグネル・ソサィエティー男声合唱団、器楽部によって演奏されました。
なお、作詞・作曲を手がけた吉田進さんは現在パリ在住の作曲家として活躍されています。

≪収穫祭の歌≫の思い出     (文:第16期卒業生 吉田進)

yoshida01.jpg学校の文化祭の讃歌を、在校生自身が作詞・作曲するというのは、極めて稀な例だろう。

僕が志木高校2年在学中に、カネボウのコマーシャル・ソングを作って採用されたことが校内に知れ渡り、収穫祭実行委員会から頼まれたのだった。

10ヶ月がかりで、慎重に想を練った。歌詞もメロディーもよそにない、志木高カラーと言うべきものを打ち出すこと。

志木のキャンパスの最大の特徴は、その豊かな自然にある。今、楽譜を読み返してみると、第3音(「ミ」の音)の多用が、爽やかな環境を映しているようである。歌詞の方は、校内新聞や過去の収穫祭のパンフレットに目を通し、適切な言葉を抜き出して再構成した。

こうして出来上がった曲を、今度はア・カペラの合唱、マンドリン合奏、ブラス・バンドの三通りに編曲し、最終学年の秋に披露した。ブラス・バンドによる発表では、全校生徒が声を合わせた光景を、今でもよく憶えている。

こう書くと、僕は当時すでにセミ・プロであったように思われるかも知れないが、そんなことはない。

ポピュラー音楽に夢中で、収穫祭の発表会では仲間とバンドを組み、エレキ・ギターを担当していた。家にピアノがなかったので、登校時間前に音楽室に忍び込み、ピアノの蓋の鍵を下敷ではじいて外し、そっと練習した。音楽の新保堯司先生が、「誰かピアノを開けて弾いている奴がいるらしい」と仰った時には、「あ、そうですか?」と、とぼけて答えた。

ところがその頃、≪ウェストサイド物語≫のリヴァイヴァル上映に接して啓示を受ける。この不朽のミュージカルの作曲者、レナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団の指揮者だというので、クラシック音楽に興味を持ち、次第にその魅力に囚われて行ったのだ。

将来は作曲家になりたいと期していた僕には、浪人を覚悟で音楽大学を受験するという選択もあり得たが、そのまま経済学部へ進んだ。

これは賢明だった。狭い音楽の世界に閉じ籠もることなく、自由に伸び伸びと自己の感性を磨くことが出来たからである。

卒業後僕は渡仏し、パリ国立音楽院(コンセルヴァトワール)で、オリヴィエ・メシアン先生に師事することになる。

志木を去って実に46年後、学校から連絡があった。≪収穫祭の歌≫をブラス・バンドと合唱で演奏したいが、当時の楽譜は散逸してしまっているので、新たに編曲してもらえないか、と言うのである。

そこで僕は考えた。この際、公式のピアノ伴奏譜を作っておけば、それを元に様々な編曲が可能だろうと。ブラス・バンドへのアレンジは、実際に器楽部を指導されている小池先生にお願いすることにした。

改めてプロの眼で見ても、高校生の作曲に遜色はない。それどころか、ここには恐らく現役の生徒にしか書けない、若々しい息吹がある。僕は嬉々として、伴奏譜の作成に取り組んだ。

そして2012年秋。幸運にもフランスから一時帰国していた僕の眼前で、≪収穫祭の歌≫はほぼ半世紀ぶりに、志木高生の合唱とブラス・バンドの演奏で復活したのであった。

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