池田 卓也

「上手に点てられるようになったね」

Ikeda_2015.jpg

「先生、どう?」
「うわぁ、上手に点てられるようになったね」――

3年生の自由選択科目「社会A」最後の授業での一コマ。一年間の授業の集大成として、各自ペアになった友人のために薄茶を点ててもらう。もはやこちらがあれこれ指示せずとも、慣れた手つきで履修者の諸君は心を込めて茶を点ててゆく。

「一体誰のおかげでそんなに上手にできるようになったのかなぁ(ニヤリ)」

いつものやりとりの延長から、本当は思ってもいない(というよりもむしろ、思ってはいけない)冗談を口にして、「またはじまったよ」とでも言わんばかりの生徒たちのいたずらっぽい笑みを受けつつも、内心は深い感慨で満たされる。

授業が終わり、履修者の諸君が「ありがとうございました」と口々に礼を言いながら部屋を去ってゆく。「こちらこそ、どうもありがとう」、型通りの挨拶ではなく、それは私の本心だ。

大変だろうと私を気遣って片付けを手伝ってくれた諸君も去り、最後には私一人。なんとなく、すぐには立ち去り難く、残った茶で、一碗の薄茶を点てて飲む。ああ、美味しい。

かつて井伊直弼〔宗観〕(1815-60)は、その著『茶湯一会集』で、

......決して客の帰路見えずとも、取かた付け急くべからず、いかにも心静かに茶席に立ちもどり、......炉前に独座して、今暫く御咄も有るべきに、もはや何方まで参らるべき哉、今日、一期一会済みて、ふたたびかえらざる事を観念し、或いは独服をもいたす事、この一会極意の習いなり、この時寂莫として、打語らうものとては、釜一口のみにして、外に物なし、誠に自得せざればいたりがたき境界なり

と書いた(註1)。そもそも片付けの後だし、シチュエーションは全く異なるが、思うに今の私の心境は、井伊直弼のそれに近いのではないか。先人には遥かに及ばないし(無論、「自得」などできていない)、真っ当な茶人たちにひどく叱られそうだが、そんな分不相応なことを思う。

常に試行錯誤で反省ばかりの授業。でも、こんな日常の他愛ないやりとりに、この職に就かせていただいている幸福と、志木高生の温かさとを感じている。
【註】
(1) 井伊直弼(著)・戸田勝久(校注)『茶湯一会集・閑夜茶話』〈岩波文庫:青50-1〉(岩波書店、2010年)、pp.132-133「独座観念」

池田 卓也 (いけだ たくや)
担当教科:社会  端艇部部長

(2015年4月)

巣立っていった教え子の諸君へ

 初めて慶應義塾の教壇に立たせて頂いてから、今年で10年目を迎えました。その間出会った教え子の諸君、元気にしていますか? 僕は今、君たちにとても感謝しています。それは、日頃君たちが僕に大きな力を与えてくれているからです。「そんなもの与えた覚えはないよ」、多くの諸君はそう思うでしょう。でも、それは違うんだ。

これまで、日本史や近・現代史、自由選択科目などの授業やホームルーム、クラブ活動、学校行事など、さまざまな場面で君たちと接してきました。そこでは、授業一つをとっても、講義のほか、茶道などの実演や実習、変体仮名の演習、『学問のすゝめ』の講読・発表など、いずれも試行錯誤の毎日でしたが(それは今後も変わらないでしょう)、目を輝かせて参加してくれた諸君、熱心にメモをとって質問してくれた諸君、思いもよらない意見や(時には手厳しくも)建設的なコメントを寄せてくれた諸君たちと過ごした日々が、今の僕の授業や志木高生諸君と関わる際に、どれだけ支えになっているか知れません。どうもありがとう。

 そして今、僕も君たちにとって、また現在・未来の志木高生諸君にとって、ちょうど僕にとっての君たちのような存在でありたいと願っています。君たちが常に僕の背中を押してくれるように。

池田 卓也 (いけだ たくや)
担当教科:社会  端艇部副部長

(2012年8月)